『本を読む』ことについて書かれた本を読む。

大学三回生になって、はや半年どころか、それすらも軽く過ぎ去っていることに気付き、恐れ戦いている二シ満塁です。

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柳広司『二度読んだ本を三度読む』 岩波新書
三木清三木清 教養論集』講談社文芸文庫 は途中まで
を読む。

柳さんは『ジョーカー・ゲーム』などで知られるベテラン作家さん。
三木清は、明治大正昭和の時代を渡り歩いた哲学者。

上記二冊は、文学部でありながら、ろくに本を読まないゴミ学生の自分には、耳の痛い内容に溢れながら、気づけば目から鱗が溢れてもいた。名著であります。

まず、柳さんの本から。
ジョーカー・ゲーム』シリーズを読んでいても思っていたことだが、柳さんの書く文章は、徹底して柔らかい。

真面目な論考に、適度な口語調が混ざっている、という感じ。一方的な説き方ではなく、両者リラックスして、お菓子でもつまみながら対話しているような感覚があった。壇上からの拡声器を通した声を漫然と聴いているような、校長先生からのお話的な隔りというより、バーカウンターで肩を並べて、二人にしか聴こえない声量でジョークを交えながら喋っている、といった感覚。

これが何とも気持ちいい。

坂口安吾は『大阪の反逆』において、
>>理論は理論でちゃんと言っているのだから、その合いの手に、時々読者を笑わせたところで、それによって理論自体が軽薄になるべきものではないのだから、ちょっと一行加筆して読者をよろこばせることができるなら、加筆して悪かろう筈はない。(1)<<  
と残している。

これは、太宰治織田作之助坂口安吾の三人が対談した後、その速記に織田作之助が、対談中には発しなかった無駄な言葉を書き加えたことに対しての安吾の評である。

本質を見続けた、安吾らしい意見であると思う。この考えが今回の柳さんの著作を読んでいて、思い出されたことだ。真面目な言葉ばかりではつまらないと、いつも思う。小泉進次郎さんのセクシー発言もまだ、記憶に新しいと思うが、その場の空気を読み取っての、気の利いた発言というものは、誰にでもできることじゃない。(報道的には、一連の流れの一部分だけを切り取った、メディアのいつもの手法でしたね)

無益な言葉狩りのような世の中になっていくのは、つまらないなぁと思う。言葉を楽しむ気風、余裕というもの(そんなものがあるのかは知らない)が、もっと大切にされればいいなぁと思った今日この頃。

閑話休題

恥ずかしながら、柳さんの挙げた作品群のなかで読んだことのある作品は数作だけであった。柳さんは、『竜馬がゆく』を挙げていたが、そのなかで先述したことにも関係する、「読みやすさ」を指摘していた。一方で「読みやすい」が故に招いた「司馬史観」という呪縛の一面も明らかにする。「読みやすさ」のみを追求しては、それもまた意図せぬ結果を招くのかなぁと思った(司馬遼太郎が「読みやすさ」を追求したとは書かれていないので注意)。したり顔で書いてる感じになってますが、僕は『竜馬がゆく』を読んだことがありません。読みます、これから。


ここまで書いてきても、オチというオチが思いつかないので、今回はこの辺で御開き。書き殴り感満載でごめんなさい。


引用
(1)坂口安吾 『不良少年とキリスト』 新潮社 令和元年 p200